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善と悪

母の知人に「エホバの証人」の信者さんがいて、我が家のポストにはその方が定期的に『ものみの塔』を投函して下さる。母はその方からのお手紙だけ一瞥して『ものみの塔』は読まずに捨てている。

その『ものみの塔』に、ぼくはたまに目を通す。最新号は「聖書の楽しい読み方」というタイトルで、『新世界訳』の宣伝以外の部分はふつうのクリスチャンのデボーション(devotion. 祈りと学びと黙想をひっくるめた宗教行為のこと)と同じようなことが書いてある(もっとも「エホバの証人」はイエスさまを人間とみなす点で一貫している)のだが、中身を読み終わって冊子をひっくり返すと上掲のような記事が目に入った。

神様が苦しみを引き起こすのですか

神が世の中に悪や苦しみをもたらすことは決してありません。……苦しみの主な原因は、「世の支配者」である悪魔サタンにあります。

「ああ、エホバの証人はやっぱりエホバの証人やなあ」と思う。こんなの、キリスト教じゃない。

*

「この世には善なる支配者と悪なる支配者がいる」みたいな善悪二元論はキリスト教ではない。

主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。(箴16:4、改)

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。(ロマ11:36)

世界観の話だけをするなら、キリスト教は善悪二元論ではなく唯一神による一元論である。「では悪を作られたのも神ですか」ときかれたら、単にことばの上だけの話をするなら「そうです」としか言いようがない。

「あなたが善を行うときあなたは神の被造物で、あなたが悪を行うときあなたは悪魔の被造物ですか?あなたはひとりの人間として神に作られたのでしょう?また雨が田畑を潤すとき雨は神の被造物で、雨が土砂崩れを起こして家を押し流すとき雨は悪魔の被造物ですか?雨は同じ雨でともに神が備えられたものでしょう?」

*

「なにより、神はあなたが善を行うときのみ愛して下さり、悪を行うときは愛して下さらないのですか?神はあなたが悪を行うときにも善を行うとき同様愛して下さったからこそ、あなたをイエス・キリストの十字架の血によって罪から贖い出し(買い戻し)て下さったのではなかったのですか?」

たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。(Iヨハ2:1-2)

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(Iヨハ4:10)

善をも悪をも行うことのできる存在としての人間を、神はそのまま愛して下さる。そして、私たちが互いに愛し合うのも、互いに善を行う限りにおいてではない。

互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。(コロ3:13)

神学的につたない教会は現実には正統派のキリスト教会にもそれなりにある。だが「あなたは善を行う限りにおいてのみ神と人とに愛される」と宣言するような教会に、偽善者とならずに所属することは、ふつうの人には困難だろう。神が唯一の神・唯一の造り主であることと、神が悪を行うあなたも愛して下さること、そして互いに愛し合い赦し合うことを「掟」として求められること、とは一体のことである。

人間が罪深い以上、善悪二元論は愛を不可能にし、人を神から離れさせ、神に反抗する者へと引き寄せる。それは、キリストの道ではない、たとえそれが愛を動機として人を善い行いに駆り立てる、つまり建徳的である、ように見えても。

*

「キリスト教が唯一神による一元論だとしたら、善悪とは相対的なものに過ぎないのですか」という質問があるだろう。だが、善/悪、有益/無益、味方/敵といった概念の枠組それ自体を否定する箇所は聖書にはどこにもない。

「ではどこまでも悪でしかないもの、つまり絶対悪を、それでも神は作られたのですか」ときかれたら、神が「天地とすべて見えるものと見えないものとの造り主」である以上、ある人にとって絶対悪に見えるものもやはり神が作られたのだとしか言いようがない。

「それは、『ものみの塔』の言うとおり、『神が悪を行うなど、全能者が不正をするなど、絶対にそういうことはない。』(ヨブ34:10、改)という聖句に反しませんか?」ときかれたら。「反しません」というのが答だが、この答に納得できるかどうかはその人が信仰というものを理解できるかどうかにかかっている。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ロマ8:28)

「神を愛する」という意志とその実行を通して、私たちは「万事が益となるように共に働く」のを見る。善/悪、有益/無益、味方/敵といった概念は、概念として相対化されるのではなく、信仰という意志とその実行を通して乗り越えられるのである。

「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ロマ8:28)

*

先に掲げた『ものみの塔』には「苦しみはいつかなくなりますか」という問いの答として黙示録(「エホバの証人」では "Revelation" という英語の書名をそのまま「啓示」と訳している)を引いている。世界の枠組が人間の力でどうにもならない善悪二元論なら、神が終末的なさばきを通して二元論の対立に終止符を打つことによってしかこの世の苦しみはなくならない。

だがキリスト教は善悪二元論ではない、という話をした。私たちの目の前にある苦しみは終末を通してはじめて解決されるのではなく、私たち自身の信仰によっていま・ここで解決される。それが、クリスチャンの信仰である。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 (ロマ8:35,37)

「その『勝利』を、私たちはどこで見ることができますか」ときく人がいるかもしれない。「見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハ20:29)アーメン。だがほんとうは「その『勝利』を見るために、どうぞ教会にお越し下さい」と言うべきなのだ。教会が信仰の「勝利」を証言できていないから、ひとが教会に来ないのだ。

*

ベネディクト16世は史上初めてテレビを通じて信徒などの質問に答えたローマ教皇になった。 2011年4月22日にイタリアのカトリック教会の番組に出演し、あらかじめ寄せられた質問のうち7つに応えた。そのうち日本の千葉県在住の少女から寄せられた東日本大震災に際しての質問「どうしてこんなに怖い思いをしなければいけないのか」には「私も同じように『なぜ』と自問しています。答えが見つからない」と言いつつも「我々は皆さんと共にある」と応えた。

ベネディクト16世 (ローマ教皇) - Wikipedia #メディア露出

ある特別な出来事を前にして「いま私たちに臨んだ神のみこころはこうです」などと知ったふうな口をきくべきではない。だが大きなわざわいを前に「いま私には神のみこころが分かりません」という言い方をしてしまうのも、特に教役者としてはさびしいとぼくは思う。

信仰がある限り、つねに言い得ることがあるはずである。次の2つの聖句は表裏一体である。

まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。(マタ7:11)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(Iテサ5:16-18)

震災においても津波においても原発事故においても、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」というみことばは真実である。

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。 そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、 わたしに出会うであろう、と主は言われる。 (エレ29:11-14)

津波で家と妻子と職を同時に失った人に、あるいは原発事故で土地を失った人に、「いまあなたの遭った目について神に感謝しましょう」と言うことには勇気がいる。というかそれは、みことばの真実を「見ずに信じる」ことに殉じようと決めた教役者か、自分で実際にそのようして神による「勝利」を体験した信仰者でないとできないことである。

わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。 (ロマ8:38-39)

その神の愛を、神の愛による私たちの信仰の勝利を、証言するのが教会の務めである。ほんとうは。

*

「神が何をどのように創造されたにせよ、神ご自身には善なる意志しかなかったし、人間が現実に善も悪も生きることができるとしても、神は人間に善なる意志だけを持って欲しいと願っておられる。」

善と悪についてキリスト教が信じていることをひとことで言い表せばこうなると思う。「それは聖書のどこに書いてありますか?」ときかれたら、「ロマ・ガラテヤ・Iヨハネを注意深く読んで下さい」という程度の答しかできない。これは、奥義なのだ。奥義だから、頭でだけ考えて「善なる神が悪を創造されたはずがない」と言って善悪二元論に陥るクリスチャンが、エホバの証人以外にも、たくさん現れてしまう。

「私は神に愛されているのになぜ神からこんな目に遭わされ続けるのか」ということを考え続けることを通してしか、この奥義を理解することはできない。そういう目に遭い続けた人々から学ぶことによってしか、この奥義を体得することはできない。

ぼく自身は、パスカルに出会わなかったら、この奥義を理解することはできなかっただろう。

神は理知よりも意志をととのえようと望まれる。完全な光は理知には有用であろうが、意志には有害であろう。

尊大を卑下させること。

(パスカル/前田陽一・由木康訳『パンセ』581番)

(2017年01月)

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